奇跡が起きない世界で、親としてできる最後のこと

今日は4年前に亡くなった母の誕生日で、先週は9年前に亡くなった父の命日でした。

二人ともガンで60代で亡くなり、父を病院で看取り、そのことについて後悔し続けた母を姉弟で協力して自宅で看取った経験はハフィントンポストに寄稿させてもらいました。(前編中編後編

この経験で強く思ったことが、「ああ、ドラマや小説みたいな奇跡ってそんなに簡単に起こらないんだな」ということ、そして「その中でもやれることはあるし、やれなかったことよりやれたことに目を向けよう、思い描いていたようなベストな人生ではなくとも、全力を尽くそう」ということでした。

最近、1冊の漫画に出会いました。同じく母を亡くし、そのときの経験を漫画にした作品で、映画にもなっています。

この作品では、3つの命に関するエピソードが出てきます。

一つは、主人公がまだ若いときに重たい血液の疾患が見つかり、骨髄移植を受けることになったときに、弱気になる主人公に母親がかけた根拠の無い自信に満ちた言葉に救われたというエピソード。

「あんたがダメになるなんて誰も想像しとらんて。あんたお兄ちゃんの骨髄もらうんやろ?お兄ちゃんもあんたもワテが産んだ傑作やでねえ。なんも心配しとらんよ」

もう一つは、その根拠のない自信によって助かった主人公が、今度は母親を根拠のない自信によって励まし、なんとか一緒に生きようとするも、今回は奇跡は起きずに助からなかったということ。

最後の一つは、主人公が骨髄移植を受ける前に、精子の凍結保存を嫌がる主人公を「これだけは絶対にしておかないとダメだ」と押し切って、母親が死ぬまでずっと保存を続けてくれていたことが母の死後になってわかり、それによって主人公が子どもを持つことができたというエピソード。

そうやって助かった命、助からなかった命、両方の命を引き継いで生まれた自分の子どもに向かって、主人公は母の死から学んだことを手紙に書きます。

「親の死には子供の人生を動かすだけの大きな力がある。悲しい悲しいと泣いていても、気がつけば新しいことが動き始めたりするものなんだ。ある日の別れの経験が、君の重かった腰を持ち上げるんだよ。すると、君はまた忙しくなるんだ。忙しいのはしあわせなことだから、精一杯頑張りなさい。オレの死は君のペダルを押し込む。オレの死は君を前に進ませるんだ。そうやってオレは死にたいと思っているよ。お前のおばあちゃんがそうだったように――」

あまりにも共感して、あまりにも胸に迫ってくるものがありました。

思えば自分も父の死後に「いまやりたいことをやらないと明日はどうなるかわからない」ということを心底痛感し、そこから3ヶ月で結婚し、妻と念願だった飲食店をオープンさせました。わずか3ヶ月、まさに死に物狂いで前に進みました。

そして母の死後は、「病院の意志決定プロセスに巻き込まれ父を自宅で看取れなかった」という深い後悔を自分だけの問題にするのではなく、同じような困難を抱えている人に向けて本を書いて世の中に訴えかけようとした母に習って、自分も看取りの経験を人に話すようになり、それがハフィントンポストへの寄稿やそれを見て色々なイベントなどに呼んで頂く機会につながり、また違う世界が開けてきました。

まさに、親の死が子どもである自分のペダルを押し込んだんだなと、この漫画を読んで改めて思いました。

奇跡は、簡単には起こらない。悲しい結末は、すぐそこにある。でも、そこには、学びや救いや次につながる何かがある。あるいは、そこから何かを学び取れるほどに、残された人を成長させてくれる。

親の最後の仕事は、自らの死によって子どもや周りの人のペダルを押し込むことだと、親になった自分も今そう思います。ペダルを押し込んでくれた両親への感謝と共に。

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